朝の一駅歩き 2015.12..21 (No.68)
     
     雨の日以外は、海生研事務局の最寄り駅である地下鉄有楽町線江戸川橋駅の一つ前の飯田橋駅で降り、事務局まで歩いている。飯田橋駅から事務局まで色々なルートがあるが、良く使うのは、神楽坂方面の改札を出て、神楽坂を登り、赤城神社の境内を通って、水道町という信号機のある交差点まで下り、そこを左に曲がって地蔵通りを通り抜け、江戸川橋通りへ出るというルートで、所要時間は20分程度である。神楽坂の通りは、昼食や夜の飲み会のための飲食店が多く、朝の時間帯はほとんど営業をしていない店が多いが、看板などがカラフルで、通勤や通学の人通りも多く、朝から賑やかである。毘沙門天善国寺という日蓮宗の寺院もあり、柱などの朱色が目立っている。
 しばらく歩くと今年の夏に設置された読売新聞の4コマ漫画の主人公であるコボちゃんの銅像もあるが、こちらは郵便ポストの横にひっそりと立っている。今日(12月16日)は、毛糸の帽子と赤いマントを着せられていた。コボちゃんを過ぎて少し歩くと右側に赤城神社が見える。赤城神社では、いつも素通りは失礼と思い、時々、本殿に参拝している。赤城神社から急な坂を下る。下り終えた所から水道町の交差点までは平坦な道で、このあたり一帯は印刷や製本関係の会社が多く、トラックから印刷物を下ろしたり、乗せたりするため、フォークリフトが何台も活躍している。印刷関係の機械の音も聞こえてくる。
 水道町の交差点を左に曲がると地蔵通りになる。最近新しい店ができてきているが、和菓子屋、時計屋、飲食店、薬局、クリーニング店、果物店などが並ぶ、昔ながらの商店街である。以前、若い女性を年配の方が自転車で追い抜く際に、「○○ちゃん、昨日親知らずを抜いたそうだね。」と話しかけていた。若い女性は何か笑いながら応えていた。東京の真中にも、まだこのような近所づきあいが残っている場所があるようで、和らいだ気分になった。業務執行理事木下泉


地図 2015.11..24 (No.67)
     
     子供のころから地図を見ることが好きであった。鉄道好きになったのとほぼ同時機であったように思う。その後、山に登るようになってからは、鉄道車窓から見える山々を同定したいと思い、国土地理院の「二十万分の一地勢図」を集め始め、その枚数は東日本を中心に全国の半数ほどにもなっている。
 ところで、こうした日本全土の地図はいつごろからあるのだろうか。上杉和央著「地図から読む江戸時代」(ちくま新書・2015年9月刊)によれば、初めての全国図とされているのは「行基図(行基式日本図)」と呼ばれているものであり、奈良時代に全国を行脚した僧「行基」が作ったとされる伝承を基に、中世に入ってから作成されたものである。それは旧国名を寄せ集めただけの絵図であり、都市名も道路も記載されていない代物であった。江戸時代も中期頃になると、庶民も旅行に地図を利用するようになり、行基図などをベースに名所旧跡や路程を記した全国図が出版されている。しかし、地図としての正確さという意味では、「伊能忠敬」による全国測量により、ようやく今我々が目にする日本全図が描かれるようになった。忠敬自身は、地球の緯度1度の距離を正確に知りたいというのが目的であったようで、ロシアなど外国の脅威に対峙する幕府の思惑もあって全国の測量が許可されたとのことである。この「伊能図」を基にした全国地図は江戸幕府最晩年に出版され、明治政府による全国図作成に当たってもこの「伊能図」は典拠資料の一つとして列挙されていた。陸軍陸地測量部による「二十万分の一図」は、測量の進展等に合わせて典拠資料が更新されていったが、「伊能図」が完全に置き換わったのは終戦後になってからとのことであった。改めて「伊能忠敬」の業績に感銘を受けた次第である。業務執行理事石渡隆男


当たらずといえども遠からず 2015.10..20 (No.66)
     
     毎日通勤電車で海生研まで通っていますが、一体この電車でどのくらいの人を都内に運んでいるのだろうとふと考えて、以下のように考えました。
 一両にラッシュ時なら250人ぐらい乗っているとして、10両連結で2,500人、6時から9時までの3時間に5分間隔で36本、9万人、東京に入ってくる路線が、約25路線あるとして(時刻表の地図でざっと数えた)、総計225万人が毎朝運ばれてくることになる。実際の国勢調査による東京の昼間流入人口は、2010年280万人程だそうだから、車通勤、通学の人もいるので、結構推測としてはいい線いっていると思う。
 企業の面接でも最近こういった「日本にピアノ調律師が何人いるか」など、突拍子もない質問を浴びせ、思考過程、論理過程を見る会社があるそうだが、概算で物事を推し測る能力は、科学者のみならず、情報過多の世の中で、外部からの情報に押し流されないようにする不可欠の生活技術ではないだろうか。
 ちなみに先ほどの質問の模範解答は、5千万世帯の1割にピアノがあるとして500万台が2年に1回調律するとして1年で調律が必要なピアノが250万台。調律師一人が年間診れるピアノが480台(1日2台×20日×12ヶ月)。年間必要な調律師は、5,200人と推測され、実際登録されている調律師は、6,000人だそうです。理事長弓削志郎


キュレーション 2015.9.28 (No.65)
     
     30代前半からIT系、金融系を中心とする異業種の勉強会(飲み会)に参加しいろんな業種の方の話を聞く機会を得、自らの視野を広げるのに役立っている。業種にとらわれない共通の話題として、情報収集・整理の方法、スマホが登場してからは情報収集ツールなどなどを各々が披露しつつそれをネタとして盛り上がる事が多い。一方、今年は後発ながらApple Musicがスタートし、ダウンロードからストリーミングへとまた音楽の聞き方が変わろうとしている。ストリーミングは自分の好みに合わせてラジオの様に次々と曲が流れてくるが、この曲の選択をキュレーションといい、Appleは人工知能などを使わずにキュレーターと呼ばれる人が曲を選んで流すというやりかたをとっている。
 皆さん忙しい中どのように情報を取捨選択しているのか? キュレーターに任せたり、秘書に任せたりしているのか? 専門分野においては「情報収集こそ命なので人任せにしない」というのが多くの方の結論で、どのような視点で情報を集め分析するかが明確で徹底されてなければならず、鮨屋の主人が自ら築地に行かないのと一緒でそんな鮨屋は旨いはずが無いというところに落ち着く。
 また、皆さん音楽が好きで、ストリーミングサービスはどうかといえば、そもそもテキストのように楽曲の検索は容易ではないことと、未知の良い楽曲と出会う事が何より楽しいということで、そのキュレーションは利用されている。
 さて、人工知能が発達してストリーミングミュージックにおけるキュレーションを行なう時代が来るのか? 技術的に可能になったとしても、いつまでも人間がやってほしいと皆さん考えていて、こればかりは人任せが良いと。また、情報収集・分析の視点や音楽の好みが似て共有できる友達と出会えたらこれ以上の事は無いと。事務局局長代理山内達雄


ゴーヤ 2015.8.20 (No.64)
     
     ゴーヤは今でこそスーパーに普通に売られている野菜ですが,少し前までは少なくとも東日本では見かけませんでした。15年前,私は初めて行った沖縄で食べたゴーヤチャンプルの味が忘れられず,その後の2,3年は夏になると沖縄から生のゴーヤを取り寄せて料理していました。あれこれとゴーヤ料理を作るうちにゴーヤの需要が増し,ゴーヤの苗を園芸カタログで手に入れて育てゴーヤを収穫するようになり,さらに前年に収穫したゴーヤの種を発芽させて苗を作るようになってからは,いくらでも苗が準備できるようになり,盛夏の今の時期,我が家の東側と南側の外壁はほぼゴーヤで覆われています。ひとはその様子を「緑のカーテン」と呼ぶのですが,ただゴーヤを好きなだけ食べたいためにそうしているだけであって,私の目には「緑の食料」としか映りません。
 そんな身近なゴーヤですので,ゴーヤに関して少し調べてみました。ゴーヤは今でも沖縄の野菜のイメージは強いですが,主産地を見てみますと,1位はさすがに沖縄県で,2位から4位も九州地方ですが,5位に群馬県が入っており(2010年度),少なくとも,関東地方で売られているゴーヤは群馬県産も多く出回っているのではないでしょうか。
 そもそも,沖縄県からゴーヤが出荷できるようになったのは1993年以降で,それまでは,ウリミバエというウリ科の植物に寄生する害虫の本土侵入を防ぐため県外に持ち出すことはできませんでした。沖縄県ではウリミバエを根絶させるために放射線照射により不妊化したウリミバエを大量に作り,野外に放虫して野生のウリバエと交配させることにより子孫を絶やす作戦がとられました。20年にわたり沖縄県全体で530億匹の不妊化ウリミバエが放たれた結果ウリミバエは根絶され,十数年前の私は沖縄からゴーヤを取り寄せることができ喜んでいたという訳です。ゴーヤが日本中で親しまれるようになったのは,壮大な害虫根絶作戦が展開されたお陰だったのですね。さらに,現在でもウリミバエの海外からの再侵入を防止するために,一年を通して毎週,何千万匹もの不妊化ウリミバエを放虫しているそうで,バイオバリア作戦続行中といったところでしょうか。実証試験場長堀田公明


野生生物と親しむ 2015.7.21 (No.63)
     
     つい1~2週間前(6月下旬)、中央研のロビーに昆虫の「ナナフシ」が迷い込んできた。子供のころの昆虫図鑑での中でも、特に世にも不思議な生き物として見入っていた記憶がある。それが50年以上たって、現物にお目にかかれるとは驚きだ。姿は枯れた細枝のごとく、動作は緩やかで、茂みの中では、まず見つかるまい。それ以上に、実際にナナフシがいるなんて、東京育ちの私にとっては信じられないことだった。
 昨晩のこと、勝浦のアパートの網戸の外にノコギリクワガタがとまっていた。ふと、忘れていた昆虫採集の楽しさを思い出した。森の中に入っていけば、カブトムシやクワガタなどかなり採れそうだ。しかし、山の中の藪漕ぎを想像すると、これから始める趣味としてはハードルが高そうだ。
 御宿町には、国の天然記念物のミヤコタナゴが棲息する場所が何か所か残っている。町を挙げてミヤコタナゴの保存に力を入れているが、生息地の周辺は休耕田が多く、イノシシが田圃の中を掘り返してますます荒れた状態になっている。元千葉県立科学博物館副館長の望月賢二先生が御宿町に移住して自生地の保存に奮闘されているが、いろいろ大変なことがあるそうだ。その話はいつか、海生研ニュースに書いてもらうよう頼んでみたい。
 中央研もミヤコタナゴの保存の一環として、平成11年から御宿産ミヤコタナゴを代々飼育している。ミヤコタナゴは数センチの黒い二枚貝(マツカサガイなど)のエラに卵を産み付ける習性があるため、この貝が存在しないとミヤコタナゴは子孫を残すことができない。2年ほど前のこと、飼育施設内にアライグマが侵入し、特に浅くて捕獲に都合の良いミヤコタナゴ水槽が荒らされ、ほとんど獲り尽くされてしまった。壊滅的被害と思われていたが、数週間後無数のミヤコタナゴの稚魚がわいてきた。アライグマに食べられる前に産卵を終えていたようだ。現在は、以前と同様たくさんのミヤコタナゴが水槽で泳いでいる。
 このほか、サル、キョン、ウサギ、タヌキ、イタチ、ハクビシンなど、様々な野生(化した)動物が現れる。このように自然豊かな御宿周辺は、東京駅から特急で1時間30分、自然と親しむ地としていろんな可能性がありそうだ。行執行理事・中央研究所所長藤井誠二


沖永良部島 2015.6.20 (No.62)
     
     中学の時、福岡県北九州市の平尾台(カルスト台地)にある鍾乳洞を先輩に誘われて探検して以来、洞窟内の神秘的で変化に富んだ光景に興味を持つようになり、この平尾台や秋芳洞で全国的に有名な山口県秋吉台で、鍾乳洞の探検(ケイビング)を行ってきました。
 さて沖永良部島は、南西諸島にある島のひとつで、沖縄本島の北隣が与論島でさらにその北にあります。西郷隆盛が1年7ヶ月流されていた島です。あまり観光に力を入れていないためか、知名度はそれほど高くないように思いますが、ケイビングをする者にとっては、この島は非常に有名な島です。昇竜洞という鍾乳洞が最も有名で、観光化されています。私は、ケイビングを行っていた仲間でサークルのようなものを作って、沖永良部島の鍾乳洞探検を目的に、何度かこの島を訪れました。観光化されていない白蛇洞という鍾乳洞を中心に探検をしていました。5~6人で朝早く洞窟に入って、洞内で昼食を食べ、できる限り行ける所まで行って、夕方泥だらけになって戻ってくるという、何が面白いの?と言われそうなことを数日間連続でしていました。
 この島は、周囲約50km程度のさんご礁の平坦な島です。島には空港があり定期便も飛んでいますが、鹿児島港から船で行くのがお奨めです。18時間くらいかかります。この島が何といっても良いのは、ハブがいないことです。草むらや藪の中も安心して歩くことができます。この島にハブのいない理由として、むかしこの島が海面上昇でいったん海の中に沈んだときに滅んでしまったという説や、この島はさんご礁の島なのでアルカリ性土壌がハブに合わず連れてきても生きていけないという説があります。海には猛毒のウミヘビがいますが、性格はおとなしく、人に先制攻撃をしてくることはありません。島の人も親切で、テント暮らしの我々に、自宅の離れを使わせて下さったり、台風で帰れなくなった時は、町の集会場のような場所をしばらく使わせていただき、おにぎりや焼酎などの差し入れもいただきました。
 気候も温暖ですし、ゆったり、のんびり過ごすには最適な場所だと思います。またいつか訪ねてみたいと思っています。業務執行理事木下泉


新幹線考 2015.5.20 (No.61)
     
     今年3月、北陸新幹線が長野から金沢まで延長され、北陸方面への観光客が大幅に増加した。一般に鉄道が航空機利用より有利となるのは、到達時間が4時間を切るあたりからだと云われている。今回の延長により東京-金沢間は2時間30分程度となり、航空機は苦戦を強いられることとなろう。もとより、到達時間の短縮は喜ぶべきことであり、マスコミもそのことを大きく取り上げていたのだが、一方で並行在来線についてはあまり取り上げられていない。延長された長野-直江津-富山-金沢間の在来線はJRからは分離され、県ごとに異なる4つの第三セクター鉄道が引き受けることになった。しかも、その第三セクター間では直通の列車が殆ど設定されておらず、県を跨って移動する場合には県境付近の接続駅で必ず乗り換えが必要となってしまった。また、それぞれの第三セクター鉄道では、乗り換えの案内も積極的には行われていないようで、乗換駅での接続列車の有無や待ち時間については駅の時刻表を見ただけでは分からなくなっている。運賃もJR時代より高くなり、地方間の移動ではむしろ不便になってしまったようだ。人気列車であった長距離の寝台特急列車が無くなったのも、一説にはこうした複数事業者を跨る運行については事業者間での調整や事故時の復旧等に多くの手間がかかり、運賃収入も分割されることを嫌ったのでは、と云われている。鉄道はネットワークが命であり、事業者が複数であったとしても利用者の利便性を最大限考慮した運用を望みたいものである。
 鉄道に乗ること自体が好きで、新幹線よりはのんびりとした在来線を利用したいと思っている私のような者にとって、新幹線の延長は悩ましいことになってしまった。今後、地方間を移動する人々が、鉄道からバスなど他の交通機関に移行してしまい、最後には鉄道が廃止されることのないように願うばかりである。業務執行理事石渡隆男


もっと想像力を養おう 2015.4.20 (No.60)
     
     最近の世の中の事件を見ていると、あらゆる面で想像力の足りなさによるのも原因の一つかと思えることがよくある。福島の事故以降、「想定外」というのが、一時期あちこちで使われていたが、宇宙人が攻めてきたわけでも無いので、自然災害にしろ人的災害にしろ、想像の範囲内であり、「外」ではなく「想定不足」と言うべきであろう。
 悲劇的な犯罪事件についても、加害者が、自分がそんな目にあったらと想像していたら、またまわりの関係者が事前に防げなかったのも、もしかしてこういうことが起こったらと少し想像の範囲を広げていたら、悲惨な事件が発生しなかったかもしれない。
 想像力が欠如しているのは、夢見ることができなくなっているからなのか、本や映画やテレビやゲームでいろいろなものが供給されるから自ら考え、想像する必要がなくなって、お仕着せのものでも満足できるようになっているからかもしれない。
 子供の頃に空き地でヒーローになりきり、落書きで宇宙旅行に憧れ、裏山を密林に見立てて遊ぶことが少なくなったため、想像力を養う場がないのかもしれない。
 より良い社会のためにも、科学の進歩のためにも、妄想でもいいから、子供達にももっと想像力を養える環境が必要かもしれないな。理事長弓削志郎


人類最大の発明は 2015.3.25 (No.59)
     
     今年家康没後400年祭に沸く日光東照宮へ出かけた帰りに近くの金谷ホテルで昼食をとった。
1922年にアインシュタインが宿泊したそうで、展示してあった宿帳から彼のサインを見つけようとしたが残念ながら見つけられなかった。
そのアインシュタインは「複利は人類最大の数学的発明だ」という言葉を残したと言われている。
 理事会も終わり来年度予算も成立したが、当所は財政的には弱小で年度途中で短期借入れによる資金調達を行いながら運営を行っている。
話は20年程前に遡るが当時御つきあいさせて頂いていた関西系の大手銀行の銀行の次長さんが来られ当所向けの貸し出しレートのを大幅に上げたいということ、借入れに条件を付けたいそうでなければ今後の貸し出しはできないとの申し入れをされた。
 これは当所にとって死活問題で弱小の立場としてこれは困ったと思い、祈るような気持ちで資料を準備し近所の東京系の銀行の法人窓口に行き事業内容等を説明して融資のお願いに行った。
 1週間も経たないうちに無担保・無条件で貸し出しをするとのご連絡を頂いた上、支店長自らお出でいただいて契約にこぎつけた。晴れている時に傘を貸し、雨が降ると返せというのが銀行だと言われるが、この時はとても恩義を感じた。
 冒頭のアインシュタインの言葉は彼らしい皮肉にあふれていると言われているが、たった24時間の資金繰りがうまくいかずに、3代に渡る事業に終止符を打った例を見たりとか、借入れや金利についての様々な経験から金利=時間であるという思いが強い。
彼はまた金利にまつわる72の法則にふれているらしい。(72の法則自体は1400年代のイタリアの本にすでに記されている)
 72の法則というのは半年複利の利率(%)で72を割ると元本が倍になる年数が求められるというもので、例えば金利7.2%であれば [ 72 ÷ 7.2 = 10年 ] となり 10年で2倍になる。
 若い人には嘘のようだが90年代の初め大手銀行の定期預金金利は7%程度あったので当時としては普通だった。
 昨今の大手銀行の1年定期の金利は0.025%で [ 72 ÷ 0.025 = 2,880年 ] という気の遠くなる年数となる。
 この10年と2,880年の差はドッグイヤーどころではなく、社会における経済・金融のスピードがそれだけ違うということだが正直なかなか実感は出来ない。
 また複利についてはこんな話もよく話題にのぼる。
 1626年にマンハッタン島をたった24ドルでインディアンが白人に売ったといわれておりインディアンがだまされて損をしたのではないか???
 しかしその後6%半年複利で運用すると現在価値は1千900億ドル(220兆円)以上になるというだからインディアンは損をしていない。事務局局長代理山内達雄


平均寿命の男女差について 2015.2.26 (No.58)
     
     今年は,海生研創立40週年ということで12月に記念行事が計画されています。40年前の昭和50年12月に海生研が産声をあげたわけですが,その時私は大学1年生でした。コンピュータの授業はありましたが,パソコンはまだなく,パンチカードを用いて大型コンピュータにフォートランのプログラムを入力していました。ちょうど関数電卓が出始めたころで,実験の計算などをするためにかなり高価でしたが,無理をして買った記憶があります。それまでは,有効数字3桁程度の掛け算・割り算は計算尺を用いていました,と言っても計算尺など見たことも聞いたことも無いと言う方がほとんどでしょう。インターネットやスマートフォンなどは夢のまた夢という時代でした。
 当時,一般教養の生物学の講義で,仮にA先生とお呼びしますが,面白いお話を伺いました。「なぜ女性のほうが,平均寿命が長いのか?」という話題になった時に,「やっぱり女性にはストレスがないんですよ。」と仰いました。A先生は,岩波の生物学辞典にも執筆者として名を連ねてらっしゃる生物学の大先生で,講義を受けていた学生の間からは,「えー!」という驚きの声があがりました。A先生の主張は,「女性は,男性のように会社で様々なストレスにさらされることがない。」というのがポイントでした。当時は,女性の社会進出も今ほどは進んでおらず,土曜日も出勤日でモーレツ社員がもてはやされていた時代でした。一般企業に週休2日制が広まったのは,昭和60年ごろからではないかと思います。
 厚生労働省のホームページによりますと,昭和50年の日本人の平均寿命は,女性が76.89年,男性が71.73年で,男女差が5.16年,最新データの平成22年は,女性が86.39年,男性が79.64年で,男女差は6.75年となっています。平均寿命は両者ともに長くなっていますが,男女差はむしろ拡大しています。40年前と比べると女性の社会進出はかなり進んで,ストレスにさらされる機会も増えたと思われますが,この40年で女性はますます強くなったということでしょうか。女性にストレスがない,というと言い過ぎかもしれませんが,私の周囲の女性を観察していますと,A先生の説は「当たらずといえども遠からず」という気がしないでもありません。実証試験場長伊藤康男


週末は少年野球 2015.1.21 (No.57)
     
   

 今、都内にある地元の公立小学校の少年野球のコーチをしている。土日の練習や試合のため、週末は毎週実家に帰り、昼間はグランド、夜は指導者との反省会と忙しい。息子が小学3年の時にこの野球チームに入部して、お手伝いのお父さんから始まって、卒業後に低学年担当コーチとなり、いつの間にか20年近くたってしまった。現在は、入部したての1,2年生の教育係として、野球の基礎を繰り返しつつ、ミニゲームで一緒に遊び、幼稚園の先生みたいなことをやっている。
 自分は野球経験がなく、中学~大学途中までバレーボール部に所属していた。ただ、子供のころは空き地や路地で野球ばかりやっていたし、小学生のころは王、長嶋の全盛期で、巨人の試合を毎日見ていたので、何とかなると思って引き受けた。しかし、実際にやってみると、野球のルールは非常に複雑で、なかなか難しい。盗塁とかタッチアップとか、低学年の子にいくら口で教えてもいざという時には、なかなかうまく動けない。ミニゲームなどで実践を重ねながら覚えていくよりなさそうだ。そういう私も見よう見まねでここまできて、ずいぶんいい加減な指導をしてきたと反省している。
 コーチを引き受けて悩んだことは、野球を初めて経験する低学年にキャッチボールやバッティングなどの基本動作をどう教えたらよいかということ。お父さん方は、お父さんのやり方を押し付けるが、低学年にはその体力は無い。少年野球の指導書もあるが、書かれていることを実際の動きとして教えることは難しい。結局、いろいろなコーチの指導の仕方をいいとこ取りして、できるだけ単純化し、反復練習に努めている。
 写真は、中央研設立当時のユニフォーム。所長に就任後、部屋の整理をしていたら、監督用が一度も袖を通さない状態で出てきた。30年以上前の、第一世代がまだ若いころ、協力会社との交流戦を行っていたようだ。残念ながら、今ではとても9人集まりそうにない。
中央研究所所長藤井誠二