体温の維持について 2014.12.22 (No.56)
     
   

 “鶴はなぜ一本足で眠るのか”という本より得た知識です。鶴は冬の寒い時期でも外敵から身を守るために湿地で眠るそうで、その際、表面積を最小にして放熱をできるだけ抑えるために、片方の足だけで立ち、もう一方の足は折りたたんで体の中にしまい込みます。体を支えている方の足は、足先を冷たい水の中に入れており、足全体も直接外気にさらされているため、足から体へ戻る静脈血の温度は低下しています。その冷えた血液が低温のままで体内に入らないよう、足の付け根付近で、体から足先へ向かう暖かい動脈血と熱交換をさせ、静脈血の温度を上げるとともに、動脈血の温度を下げて足表面からの放熱量を小さくするように工夫されています。高温の血管と低温の血管とが網のように絡んだ熱交換部位で、ワンダーネットと呼ばれているそうです。このワンダーネットは鶴だけではなく、多くの水鳥にもあるとのことです。マグロにも似たようなものがあるようです。
 さて、私は体温を維持するために、衣類を着込んで放熱を抑制することに加えて、内部発熱を高める努力をしています。3年くらい前から、週に一回、家の近くにある運動施設で1時間半くらいランニングや筋トレを行っています。健康維持のためには体温は高めの方が良く、そのためには筋肉の量を増やすことが効果的である、ということを何かの本で読んだことがきっかけです。筋肉は体の熱の40~50%程度の発生に貢献しており、体温維持に欠かすことのできない器官とのことです。最近、日本人は低体温化しており、その大きな原因は筋肉量の減少だそうです。
 寒くなると運動不足になりがちですが、体を鍛えて体温を上げ、免疫力を高めて、風邪など引かないようにしたいと思います。業務執行理事木下泉




至仏山(しぶつさん) 2014.11.20 (No.55)
     
   

 仲間とテント持ちで夏山を縦走したのは、もう30年以上も前のことである。当時は登山ブームであり、上野発の夜行列車に乗るには何時間も前から列に並ぶという有様であった。北アルプスなどは山小屋が整備され多くの人が行くので、我々は登山者の比較的少ない東北の山々を登ることが多かった。八幡平、秋田駒ヶ岳、早池峰山、飯豊、朝日、吾妻など、ゆったりとした笹尾根と素晴らしいお花畑が東北の山々の大きな特徴だと思う。所帯を持ってからは日帰りか1泊くらいの低山に登ることが多かったが、年々その回数は減ってきて、最近では年1回行くかどうかとなってしまった。
 そんなある日、写真仲間から、車の夜行日帰りで尾瀬ヶ原の紅葉を撮りに行こうと誘いがあった。そういえば、尾瀬の東西に聳える燧ケ岳と至仏山にはまだ登っていないことを思い出し、自分は至仏山に登ることにして仲間と深夜の東京を出発した。早朝のまだ薄暗い鳩待峠で尾瀬ヶ原に向かう仲間たちと別れ、一人で山頂に向かって歩き始めた。登り始めて暫くはガスがあたりを覆っていたが、だんだん明るくなるにつれて途切れてきた。そして、ガスの中に燧ケ岳が現れ始め、やがて尾瀬ヶ原が一望のもとに広がり始めた。山頂に近づくにつれてガスは文字通り霧消し、燧ケ岳と尾瀬ヶ原の全貌が見えてきた。この日は尾瀬の外側は一面に雲海が広がっており、群馬、長野、福島、新潟の山々が雲海の上に浮かんで、特徴ある山頂の苗場山を同定することができた。そして雲海の南、遥か彼方にうっすらと富士山の姿も確認できたのである。至仏山山頂は風も穏やかで温かく、大勢の登山者がこの絶景を楽しんでいた。そして、昼過ぎにまた鳩待峠で仲間と合流し、片品村の温泉で汗を流して帰路についたのだが、家内からのメールはこの日の御嶽山の噴火を伝えていた。合掌業務執行理事石渡隆男




「研究」とは 2014.10.20 (No.54)
     
   

 秋の夜長に少しまじめに考えてみた。
 普段なにげなしに「研究」という言葉を使っているが、改めてこの言葉を見ると「研」と「究」からなっているこの意味が、研究の本来のあるべき姿を示唆しているのかもしれない。「究」は、究極というように物事を極めるということで、確かに研究で求められていることだ。一方の「研」の字は、研磨という使われから分かる通り、元々「石」で摩り磨く、刃物を「研ぐ」という意味である。これからやはり物事の本質を見極める意味となったということだが、わざわざ「研」の字を当てているのは、刃物を研げば鋭くなってくる、光り輝いてくる、切れ味が良くなってくることだ。つまり、「研究」は、単に物事の本質を追求することだけでなく、それには、「鋭い」考察があり、万人が感心する「輝き」があり、その成果が世の中をいろんな意味で「より良く」するものであるということではないだろうか。今年、世間を騒がしたあの研究も磨きが足りなかったということではないか。
 研究者でもない自分が口幅ったいが、研究機関の理事長として、研究者の皆さんにこの「研究」とは何かいうことを漢字から見たアプローチも含め改めて考えてもらえば幸いである。理事長弓削志郎




身軽に身軽に 2014.9.25 (No.53)
     
   

 「えっ。かなり厳しいですよ。普通は車で自転車をふもとまで運んで前泊して、荷物は全て車に任せて翌朝から登りますよ。私も何回も登ってますが。」
 正月の箱根駅伝塔ノ沢のごぼう抜きの興奮冷めやらぬ春、息子と二人で自転車で駅伝コースを走っての箱根越えを計画したが、箱根越えに備え自転車のタイヤ交換などを依頼したサイクルショップのベテランサイクリストは、芦ノ湖に向かうほぼ頂上で一泊する計画をきいて整備の手を休めて冒頭のように話した。
 急遽頂上の宿をキャンセルし、塔ノ沢に宿を取り直し東京から各々一泊分の荷物を担ぎ箱根に向かってペダルをこいだ。しかしながら冒頭の言葉は正しく、結局東京から小田原まで進むのがやっとという惨憺たる結果に終わり、小田原の駐輪場に自転車を預け、小田急線と箱根登山鉄道を乗り継いでなんとか塔ノ沢までたどり着いた。
 以来4度目の挑戦で昨年秋に念願の箱根越えを達成する事ができた。
 また、当時中腹と考えていた塔ノ沢まででも相当大変である事がわかった。
 ポイントは荷物の量だった。山の中でブレーキ故障やパンク等が起きた場合に備えてスペアの部品、空気入れ、工具を持って行くが、故障の程度の想定により荷物の量が全く異なってくるので、現実的・合理的な想定=(適切なリスク評価)をしつつ、日常の装備品も100g単位で見直し荷物重量を当初の半分以下にする事が出来た。
 そもそも10年程前冒頭のサイクルショップに自転車を見に行ったところ、いきなり数十万円の自転車を勧められて面食らった私はその十分の一の自転車で御勘弁願って以来その自転車に乗り続けてきた。スーパーで売っているママチャリが十数キロの重量であるのに対し、値段の高い自転車の重量は数キロ以下で軽い分だけ軽快に走ることが出来る。
 実は二十歳の時に自転車で沼津の親戚まで行った事があるが、その時はR246という箱根を北側に迂回する道を選んだ。それでも坂はそれなりにあったのだが、その時は軽々と沼津まで着いた。考えればその時の体重からピーク時で30キロくらい太っていたことに気づく。
 荷物も軽く、自転車も軽くなら身も軽くということで、最近はiPhoneのフィットネスアプリの助けも借り、この夏は好きなハーゲンダッツも我慢をして自転車に乗り、ピーク時より18キロ減量できメタボも徐々に卒業できそうで、これからも自転車に乗り続け健康を維持できたらと願っている。事務局局長代理山内達雄




長岡の花火 2014.8.20 (No.52)
     
   

 新潟の三大花火について中村前場長が沿岸潮流No.41で書かれています。その一つである「2014長岡まつり大花火大会」を8月2日に見物してまいりました。有料席は,花火の打ち上げ場所に近い,大手大橋と長生橋にはさまれた信濃川の両岸に集中していて,個人で購入する場合は抽選に申し込む必要がありますが,なんとか左岸(川が流れていく方向の左側)のイス席があたりました。今年は打ち上げ日が土曜,日曜でしたので,2日間(8/2,8/3)で100万人(昨年は96万人)ほどの見物客が来られるのではないかと言われており,覚悟して出かけました。
 打ち上げが始まると,超大型スターマインの連発で豪華な花火を満喫させていただきましたが,大会のハイライトは中ほどにある復興祈願花火「フェニックス」です。10年前に起きた中越地震の犠牲者の慰霊と地震からの復興,さらには東日本大震災の被災地復興の願いも込められているということですが,平原綾香さんの「ジュピター」の音楽に合わせて5分間ほど幻想的な光と音の饗宴が続きました。長岡市長が開会のご挨拶で,「長岡の花火は日本一ではなく,世界一の花火です。」と言われていましたが,見終わって,それもあながち誇張ではないような気がしました。
 この花火大会は,昭和20年8月1日の長岡空襲の犠牲者の慰霊と長岡の町の復興を祈念する意味合いもあるということです。大会のはじめに「慰霊と平和への祈り」5発が打ち上げられましたが,この花火のスポンサーに長岡市とともに,一昨年,長岡市と姉妹都市となったホノルル市も名を連ねていました。来年の8月15日には,ホノルル市に近い真珠湾で長岡の花火を打ち上げる計画もあるそうです。長岡市は連合艦隊の司令長官だった山本五十六の出身地で,真珠湾とは不幸な歴史で縁がありますが,戦後70年を経てようやく日米双方の戦争犠牲者をともに慰霊できるようになったということだと思いました。実証試験場長伊藤康男




車と犬と中央研 2014.7.23 (No.51)
     
   

 20年以上東京勤務だった私ですが、中央研は2度目の赴任で、1回目は平成18年に海洋環境GMとして2年半、その時は、比較的東京に近い田畑広がる茂原に居を構え、2回目は昨年の4月、今度は外房の勝浦に住むことにした。勝浦の海は黒潮の影響を受けて透明度が高く、海岸線は岬と砂浜が交互に続く、とても景色のよいところだ。勝浦の部原(へばら)海岸は、かつてサーフィンの世界大会が開かれたそうで、一年中、朝からサーファーを見ることができる。
 週末は、毎週勝浦と自宅を往復している。意外と便利が良く、首都高速、アクアライン(今800円)、圏央道、そして大多喜街道(R298)経由で勝浦まで約100分で到着する。月曜日の朝早くに自宅を出て、新宿高層ビル、東京タワーやレインボーブリッジ、アクアラインを通過して、木更津を超えると景色は緑豊かな丘陵地に変わる。ICを降りると、房総半島の山道に入り、左右にゴルフ場の看板が続く中、やがて長い急坂を下りていくと、突然太平洋と勝浦市街が目に入ってくる。
 そのとき、私の車の助手席には、いつも老犬が座っている。名前はポンズ、満12歳、犬の寿命を考えるとほぼ私と同年齢、二人とも還暦間近だ。シェルティという、コリーによく似た毛の長い中型犬で、車の中はいつも毛だらけ、犬の嫌いな人の乗車はお勧めできない。娘が中一の時、3つ上の長男といざこざが絶えないので、家庭の融和を期待して飼うことにした。子犬の時は本当にかわいがっていたが、娘の世話は長くは続かずいつの間にか親まかせ、1回目の中央研異動の時におしつけられて以来、ずっと犬との二人暮らしが続いている。
 中央研での生活はとても快適だ。通勤時間は車で15分、昼休みは裏のスペースでキャッチボールやトスバッティング。夕方は漁港の釣り人を見て、クーラーを覗く。いつかやろうと思うが、週末は忙しくて、なかなか実現しない。その話はまた次回。中央研究所所長藤井誠二




ウサギ 2014.5.20 (No.50)
     
   

 両親が動物好きであったので、子供時代はいつも何かの動物に囲まれていた。猫、リス、小鳥、オームなどを思い出すが、最も長く飼っていたのは猫で、小学校低学年の頃から社会人になるまで、親、子、孫の三世代の猫とともに過ごしてきた。最後の猫はオスで15年ほど生きていたと思う。母はこの猫を特に可愛がっており、いつも私を背負う時に使った古いおんぶ紐を使って彼を背負いながら家事をこなしていた。彼もそれが気持ちよかったようで、母に背負ってくれと飛びついていく光景を良く覚えている。私自身は世帯を持ってからはアパート暮らしでペットを飼う環境にはなかったが、あるとき、同じアパートにいる長男の小学校同級生の家で、ウサギが子供を産んだというので家内と長男、次男が見に行ったところ、その可愛さに思わず1匹もらってきて飼うことになってしまった。オスのアナウサギであったが、おとなしく可愛かったのは1ヶ月くらいで、その後は凶暴なウサギに変身した。柱をかじる、コードもかじる、ティッシュペーパーの中身を全部掻き出す、ベランダへ出る窓の網戸はボロボロにする、後ろ足でダンダンと床をたたき不満を示し、食べ物を要求する時は瀬戸物の餌箱をひっくり返すと、大変なペットになってしまった。流石に室内ではケージに閉じ込めていたが、昼間はベランダで放し飼いにしていた。夏の暑さが彼には堪えたようで、長い耳をピンと風に向かって立てていた。ウサギの耳は体温調整のためのラジエーターの機能もあるようだ。晩年はウサギには良くある唾液腺炎を患い、満10歳を迎える前、私の単身赴任中に家内に抱かれながら息をひきとった。10年以上前のことである。それ以降、我が家ではペットを飼えないでいる。私の目下の楽しみは、通勤経路の路地裏に住み着いた野良猫に朝晩挨拶することであり、最近になってようやくスキンシップに応じてくれるようになった。業務執行理事石渡隆男




継続は、力なり 2014.4.18 (No.49)
     
   

 2001年から3年連用日記を使いだして、もう14年になる。ご存知の通り、3年間の同じ日が3段になって記載するスタイルだが、これを使っていると過去のことが日にち単位で分かるので、結構面白い。例えば今年の2月は大雪で何十年ぶりと言っていたが、昨年も2月6、13、19日に雪が降っている。大雪ではないが、やはり関東は、2月が雪のシーズンだなというのが分かるし、ここ数年子供たちの受験が毎年のようにあったので、同じような時期に一喜一憂していたことが分かる。
 先日も家族旅行で予約した温泉ホテルが、過去にも言ったことのあるところかどうかで、家内と意見が違ったのだが、10年前の日記を見ると宿泊したことのあるホテルで、家内の記憶の方が正しかった。人間の記憶というのは、実にいい加減なものだということが、この日記を見ているとよくわかる。自分に都合のいいように脳が整理してしまうのだろうと思う。
 ところで、月間予定表も長年蛇腹式のものを使っており、これは、1978年からだからもう36年にもなる。これだけ続くことが分かっておれば、同じテーマで継続して記録を取っておけば、個人的な貴重なデータベースになったかと思うが、記載が精粗マチマチで、その面での活用は残念ながら出来ない。しかしながら、日記にしろ、予定表にしろ並べてみると壮観で、公開するものではないし、機能を有効に活用しているとは言い難いが、製作している会社がいつか愛用者として、CMに使ってくれるのではないかと想像しながら、一人で悦に入っている。まさしく継続は、力なりである。理事長弓削志郎




SNSとビッグデータ 2014.3.20 (No.48)
     
   

 震災から3年が過ぎた。
 震災時のネット社会は流言飛語の類いでもっと混乱すると思っていたが、多くの個人や企業のボランティアに助けられ思っていたより秩序をもって営まれていたのはうれしかった。大手シンクタンクのレポートでは震災時SNSでの個人発の情報の信頼度が、各情報源の中で3位と高い評価を得、逆に政府・自治体の情報の信頼度が低下したとされている。
 ただこのところTwitter上で様々なデマが多くまた信頼度が下がっているように思える。世の中に満足している人たちは発言しないことが多いので、震災の状況を憂い発言していた人たちが発言しなくなって、満足してない人たちの発言の割合が増えたせいかもしれない。
 ラジオでDJがレディー・ガガのTwitterのフォロワー数が3千8百万で世界2位だと言う。今やTwitterのフォロワー数はアーティストの人気の証しとなりつつある。かたやニュースはアメリカではTwitterのアカウントを新興国から1アカウント当たり数円で買い上げ、フォロワー数を百万アカウント単位で売る商売があり、総アカウント数の10%は偽アカウントでではないかと報じる。
 ネット社会の成熟にともない、考えもしなかったような世界が開けるかもしれないが、ネット上のビッグデータの分析においては、ビッグデータに潜む虚実をいかに判定するかがポイントとなってくる。また基本は人なので小学校くらいからSNSなどのネット社会の基本から、正しい情報の取得方法などしっかりと教える事も不可欠だと思う。事務局局長代理山内達雄




オリンピック四方山話 2014.2.20 (No.47)
     
   

 執筆時点の話ですが、ソチオリンピックが開幕しました。それに合わせて、実証試験場のある柏崎でも2月7日(金)夜に「そちオリンピック」が開かれたと、ローカルニュースで放送されていました。といっても何のことか分からない方が多いと思いますが、柏崎市に曽地(そち)という地域があり、そこの町内会が主催して市のコミュニティーセンターで運動会が開かれたということです。以前、アメリカの大統領選挙でオバマ候補を福井県の小浜市有志が応援したという話がありましたが、それと同じのりなのでしょう。
 ロシアのほうの開会式をテレビでご覧になった方も多いと思いますが、プレゼンテーションの演出も含めてすばらしいものだったと思います。日本選手団がなかなか登場してこないので、順番はどうなっているのかとやきもきしながら見ていましたが、最後のロシア選手団の前にやっと登場しました。ロシア語のアルファベット順ということですが、ロシア文字は難しいですね。日本選手のメダル獲得数が多いに越したことはありませんが、それよりも選手の皆さんが、持てる力を100%近く発揮されて悔いのない大会にされることをお祈りしながら応援したいと思います。
 昨年は2020年の東京オリンピック開催が決まって盛り上がりましたが、1964年の東京オリンピックの時、私は小学校2年生でした。残念ながら、実際の競技は見に行く機会がありませんでしたが、小学校の担任の先生が「たぶん、日本ではもう60年、オリンピックはないから。」と言われて、授業時間中に体操の競技をテレビで見せてくれとことを覚えています。夏のオリンピックに限って言えば、先生の予言はほぼ正しかったことになります。
 記録映画「東京オリンピック」の中の閉会式のシーンで、聖火が少しずつ小さくなって消えていったあとに印象的なメッセージが出てきます。―夜聖火は太陽へ帰った。人類は4年ごとに夢をみる(今では2年ごとになりましたが)。この創られた平和を、夢で終わらせていいのであろうか―。2020年のオリンピックでも64年大会のような閉会式をもう一度見る事が出来れば、それだけで開催の意義はあったと言えると思います。実証試験場長伊藤康男




房総の漁師料理 2014.1.20 (No.46)
     
   

 房総半島の大原に住んで35年、多くの漁師料理を味わってきた。少しだけ紹介したい。大原は房総半島の東端の犬吠埼と南端の野島崎のほぼ中間に位置する。隣接する九十九里と同じく昔はイワシの巻き網漁が盛んなところであった。町のいたるところにイワシの干し場や加工工場があったが、今はその面影は少ない。初めて食べたイワシ料理は「卯の花漬け」である。酢でしめたイワシを甘酸っぱいおからに漬けている。上に散らされた柚と赤唐辛子が程良いアクセントで、噛むほどにイワシの味が染み出てくる。卯の花漬けはイワシだけでなくサンマやコハダなどでも利用され、各地で食されている。酢漬けのせいかイワシ特有の生臭さを感じることもなく、日本酒がよく進む。漁師の女将さんに聞いたイワシ料理に「ちんころ焼き」がある。何ともかわいらしい名前である。醤油で味付けたイワシの煮付けを、軽く火であぶる。夕飯のおかずを朝飯に違った味わいで食べる、おふくろの味である。
 「なめろう」と「さんが焼き」も房総の漁師料理である。味噌、ショウガ、ネギを入れ、包丁で叩いたものが「なめろう」。それを鮑の貝などに詰めて焼いたものが「さんが焼き」。アジ、トビウオ、イワシ、サンマ、ブリとそれぞれの味を楽しむことができる。「なめろう」は漁師が船上で作って食べていたことから「沖なます」とも言う。「なます」というと房州の「水なます」がある。地魚料理店で品書きを見たとき、サケの氷頭なますのイメージしか浮かばず、板さんに思わず尋ねた。丼たっぷりの砕いた氷の上に「なめろう」ときゅうり、みょうが、青じそが乗り、味噌汁の上澄みをかけていただく。酒を飲んだ後にさっと流し込むように食べるのは至福の境地である。
 最後に、昔、御宿の海女さんから教わった料理が「メメの酢の物(若布のメカブ)」である。メカブをお湯にサッと通すと鮮やかな緑に変化する。これを細かく刻み、酢と醤油を適量入れてネバネバがでてくるまでよくかき混ぜる。ご飯にかけて食べれば最高。いずれも海からの贈り物。感謝である。中央研究所所長土田修二